心が晴れなく「漠然とした不安」を抱えてしまうほど、やっかいなものはありません。
意味などもわからず、ただぼんやりと濃い霧の中にいるような感覚。
なにが不安なのか寂しいのか、怖いのか、わからない状態。
残念ながら最終的にそのような不安を解消する万能薬はありません。何事も「解決するのではなく、対処する」という姿勢を保ちながら、少しの行動を起こすだけで、状況はよくなります。
これを繰り返すことが、今日を一生懸命生きることだと感じます。
・将来を不安と感じる
・自信がもてない
・認めてほしいと思ってしまう
・貧乏が怖い
・自分が嫌い
・臆病な自分に
将来を不安と感じる・・・
旅に出るとき、驚くほど荷物の多い人を見かけませんか?
たとえば、天候が良くないことを前提に雨が降ったときの傘、嵐に備えてレインコート、履きやすい靴とレストランに行くときの靴は用意したけれど、もしも大雨が降った場合は、ブーツもいるかもしれない・・・
こうなると、次から次へと想像をふくらませて、どんどん荷物をふやしていきます。
「こんな状況になったら困るな、不便だな」
起こってほしくない未来への想像をしていることが多くありませんか?
これが単なる旅行だけならば、しばらくの間は荷物が重くなるだけですが、人生という生きていくうえでの旅であれば、いささか深刻ですね。
心の荷物は形がないので、カバンは重くなりませんが、毎日そのものが代わりに、だんだん、重たく、自分の心にのしかかってきます。
未来に対する不安というのは厄介なもので、どんどん加速するうえに、ブレーキがついていません。旅のように「確実に安全で準備万端」という荷造りはできませんので、「こうなったらどうしよう」と、不安をふくらませ続けて、一人で同じ場所にポツンと座っているような事になりかねません。そうすると、寂しさが霧のようにたちこみ、ますます先が見えない状況になってしまいます。
「未来への不安」にとらわれるのは、先のことを考えすぎてしまうクセがあるか、「目の前で起きていること」に向き合いたくない気持ちが強いからだと思います。
だけど人間だれでも心を持つものであれば、必ずおきることです。
そうゆう時は、今、目の前で起きていることだけを一つひとつ丁寧に片付けていく。
実際に行動しているわけなので、不安が勝手にふくらむことはないはずです。
明日でもなく、あさってでもなく、来年でもなく、十年後でもなく、「今」だけに集中してみたらどうでしょう。
たとえ、先のことを予測できたとしても、実際に起きるまでは、あえず考えずに知らんぷりする・・・
こう思うようになれば、「不安な未来」は知らずしらずと離れていくと思います。
自信がもてない・・・
・自分の顔を知りたいなら、鏡をじっと見るのが一番なのに、誰かの顔と比べてはいませんか?
あの人のほうが「私に比べてずっと・・・」。
そうしてしまうと、「あの人と比べた自分」しかわかりません。本当の自分の姿が目に入ってこなくなります。
人のうらやむカ所ばかり見ていたら、それが自分に対しての価値ではないのに、何が素敵なのかもわからなくなってしまいます。
自分のまつ毛の長さはみんなと同じかもしれないのに、鼻がすっと高くなくても、肌がつるつるでなくても、あなたの髪はとびきり綺麗なのに、別なところを見ているから、その輝きをも見過ごしてしまいます。
たとえ、いつもうらやましかった「あの人」と同じ顔を手にいれたとしても、今度は「別のあの人」の顔になりたくなるものです。
・自分の能力を知りたいのなら、勇気をだして試してみるのが一番なのに、誰かと比べてばかりいませんか?
あの人のほうが、仕事ができる、人に好かれるし人脈がある、要領がいい。「それに比べて、私は・・・」
こんな考え方だと、自分の仕事に集中できません。「あの人」が気になって、心が上の空だったら、いい仕事などできるわけがありません。
人と比べずにリラックスして仕事に向かえば、プラスの方向へと向かい、アイデア豊富になれるかも知れません。
「あの人」とうらやましく映るほど、その人は必死で頑張っていることを周りに見せないものです。
「他人より劣っているという不安と寂しさ」を抱えているのは、ないものねだりをしています。
人がもっているものを欲しがるのは人間の習性かもしれませんが、「みんなと同じだ」という言葉に安心する心理は誰にでもあります。
ですが、すべてを「みんなと同じ」にできることなど到底ありません。
「人がもっているものは、永遠に手に入らない」と思って受け入れていれば、自分がもっている宝物が見えてきます。
認めてほしいと思ってしまう・・・
「仕事をこんなに頑張っているのに、認められない・・・」
こんな認められない不安と寂しさを抱えていませんか?
努力しても評価されない、やっていることを誰も気づいてもらえない、上司も私を認めてくれていない。
さまざまな職場で、よく耳にする悩みです。しかし、「私を認めてほしい」という主張は、仕事の世界ではタブーだと思います。
人間として認められること、仕事について認められることは別の問題です。
仕事で認められるには、結果を出さなければなりません。厳しくても、これが仕事のルールです。
目に見えないところでの努力はすばらしくとも、結果が出なければ評価はないのです。
人間性の評価は、「会社に雇用されている時点」ですでに評価されているのですから、給料を払う価値があると認められているから働いてもらっているのです。
「認められていなかったら、私は今すでにここにはいない」と思っていれば、「認められない不安と寂しさ」は、やわらぐはずです。
仕事の場に、人間として認められることを持ち込まない・・・
会社にとっては、認める・認めないにはさまざまに基準があると思います。それに自分自身の価値を重ね合わせては、ますます不安と寂しさが募るだけです。
ちょっと切り替えて、逆に他人ではなく、自分に向けて自問したことはありますか?「私は、誰を認めているだろうか?」
自分を好きになれないのは、人を好きになれないのと同じですね。
「あの人のこんなところが凄い」「あの人は目立たないけど、こんな仕事をやり遂げている」
自分が認めているから、人にも認められている。それが相手からも思われる評価へとつながって来ると思います。
いずれにしろ、規則正しい生活をし、目の前にある自分の仕事を丁寧に片付け、人間関係を育てていくことが、「認められない不安や寂しさ」の一番の薬です。
貧乏が怖い・・・
「貧乏のまま、一生を終えるのだろうか」
貧乏だ、貧しいという言葉をたやすく使う人がいます。
よく考えてみたら、貧しさとはなんでしょう?
お金がないことでしょうか。贅沢ができないことでしょうか。好きなものが買えない、いい家に住めないといったことでしょうか。
よく考えず、言葉だけが先走りして「貧乏だ」というのは、いたずらに不安をあおり、寂しさを募らせる原因だと思います。
貧しさというのは、自分が満足しているかどうかで決まります。
お金、家、持ち物など、自分の外側に満足を求めていたら、いつまでたっても貧しいままです。
どれだけお金があっても、どれだけ恵まれていても、満たされません。人より沢山もっていなければと考えたら、きりがないということです。
もっと自分の内側に目を傾けて、目にみえないものに価値を見出すことができたら、貧しさとは永遠にさよならです。
たとえ世間の標準からみて「貧乏」であったとしても、満足して生きていけます。
テレビなどでは、世帯の平均年収や、平均貯蓄額を目にする機会があると思いますが、そんなことは気にとめません。
お金にしても、物にしても「もっていないこと=不幸」ではないと、肝に銘じていたほうがいいと感じます。
「もっと、もっと」の気持ちでいると、何事にも、どんなことにも、満足できなくなってしまいます。
「何もないし、つまらない」と言い続けている人は、天国に行ったところで文句を言う気がします。
モノやお金が、いくらあってもなくても、同じことです。
貧しいかどうかを決めるのは、自分が満足しているかどうかであり、結局のところ自分の心が「貧しいという不幸と寂しさ」を作り出しているのです。
お金は「どう使うか」が大切です。
単なる「モノを買う」浪費しか思いつかない人は、お金を有効に使うアイデアをもっていないということ。
それでは減っていくだけで、お金が喜ぶ使い方とは言えないと思います。
どれだけ有効にお金を使えるか、知恵を絞りましょう。
自分が嫌い・・・
「はたして、こんな自分でいいのだろうか?」
神経質。恥ずかしがりや。臆病。小心者。
外見よりも「内面にある貧しさ・寂しさ」を抱えている人のほうが多いのかもしれません。私もそんな人間の一人です。
私自信、かなり神経質なうえに、臆病者。
こうしたことへの不安や寂しさを感じすぎることがあって、今でも時々疲れてしまいます。
自分で自分をもてあましてしまうことも、ずいぶんありました。
細かいことが気になったり、ちょっとした事をいつまでも気に病んだりしている自分に気づくたびに自分に腹を立て、いっそうイライラしていたのです。
「どうして、自分はそんなに神経質なんだ。もっと大らかな心になれよ」
こんな風に、自分を叱りつけてすらいたのです。そうすると、神経質で臆病者の私は余計におびえてしまい、もっと神経質で臆病になるというスパイラルに陥ったことがあります。
疲れた私はあるときから無理をせず、そんな欠点を素直に受け入れることにしました。
性格まで変えることは容易なことではありませんので、できません。
人の性格を形成するのは、幼児5歳頃までといわれています。正すことはできても、変えることはできません。このままでは磁石が反発するようにストレスを常に感じるのが辛かったので、あえて正直に受け入れることにしました。
人間関係でも、相手に腹を立てず受入れ、ゆるしてあげると、とたんに楽になることが沢山あります。
・自分の内面の「よい面」を探してみるのもいいでしょう。
たとえば神経質というのは、プラスの面で見ればよく気がつくということです。
敏感で感受性が強いと言い換えることもできます。鼻が利きすぎる人、視力がものすごくいい人と、同じようなものだと考えられます。
仕事でも、生活でも、敏感であれば想像力や察知力が高まるし、そこから人への思いやりも生まれます。
心が敏感すぎるというのは困った面もありますが、非常にいいことでもあります。
それでも過剰に敏感では、まわりも自分も疲れてしまうのは事実ですので、何か一つ心を落ち着かせるようなイメージトレーニングを見つけてみるのもいいかと思います。
臆病な自分に・・・
初めて訪れた場所で、パートナーもいない、案内してくれる人もいない、たどり着きたい所があるのに、標識もない。
現代ではスマートフォンで検索して、闇雲に歩き出すことせず、あらかじめ整備されているはずのルートを確かめたり、調べたりして、不安をぬぐい去ってから出発しようとするかしこい人は沢山います。
なぜなら、「成功できるかわからない不安と寂しさ」を消したいからです。
道に迷わず、不安を抱かず、たどり着きたい場所まで最短距離で到着したいと願うから。
でも、残念なことに「仕事や人間関係、自分の目標」など 「たどり着きたい場所」は、ネットの地図検索では調べられません。
目標などの正しい方法や、ルートもないのです。
誰にも聞いても、正解はわからない。「絶対にたどり着ける」なんて保障は、誰もしてくれないし、どこにもありません。
この事実に気づいたら、受け入れるしかありません。
いくらかしこくても「わからない事はある」という厳しい事実であることを。
わからないことがあると認め、頭でっかちな賢さを放り投げてしまうと、歩き出す勇気がわいてきます。
歩き出さずにたどり着ける場所などはありません。
行動しないことには、何一つ始まらないのです。
行動すると、何かしらの発見が必ずあります。次の道がわかったり、今の道が違うとわかったりと、行動と発見の繰り返しで、たどり着きたい場所にたどり着くのです。
「うまくいくかな?」「成功するかな?」
もしこんな不安・寂しさにとらわれているとしたら、きっと、かしこくて、よく考える人である証拠です。
でも同時にそれは何も始めていない証拠でもあります。だからまずは行動しましょう。
もう、目的地への地図はないのですから、あきらめてしまいましょう。
いつまでも「これで大丈夫」となるまで考えていても、不安にがんじがらめになって動けないでいると、クセになって、ますます動けなくなります。
いざ行動してしまえば、自然と計画性が出て、歩いているという実感が自信をもたらして、「成功しないかもしれない不安・寂しさ」を徐々にやわらげてくれます。
最後に
人類の科学技術は目覚ましく進化をとげても、人間の心は進化しません。
人は「不安」や「悩み」を抱きながら生きて行く生き物です。だから人間なんです。
これが一生つきまとうと思うと心が重くなってしまいます。でも、こんな時、わたしは哲学者「ニーチェ」の思想から、 ”心にヒントと勇気” をもらいます。
自分が不安に陥る、寂しく感じる場面はなんですか?
そういった場面にあてはまる好きなニーチェの思想の言葉を探して、困難な場面で勇気をもらうのもいいと思います。
心に響く「なるほどな」と思える言葉が見つかるはずです。
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